さるのようなもの

さるのようなもの

批評家が言論の自由の名の下に標準的な医療・医学を脱構築(くさふかひ)しようとするとき、ぼくらはどうしたらいいんだろう的な初秋/20170904

twitterに投げた愚痴を多少改訂したもの。

 「日本近代文学の起源*1第Ⅲ章「病という意味」の第3節*2において、柄谷行人はファイヤーベントの科学論を引合いに出しながら奇妙なことを書いている。
 いわく“結核菌は結核の「原因」ではない*3そうだ。

  なるほど、結核の「流行」が結核菌のせいとは限らないこと、結核菌が体内にいるからといって結核の諸症状が出るとは限らないこと*4、それらは正しい。別に誰も否定しない。そこはいい。しかしだからといって“体内に病原菌がいることと、発病することはまったくべつである”と言うのは言い過ぎだ。特に「まったく」はおかしい。

 どうも柄谷は「原因」「因果関係」というものをかなり奇妙な仕方で理解(要は、誤解)しているように思われる。もしも、本気で結核菌が体内にあっても結核(の諸症状)が出ないことがある、という事実に基づいて結核菌は結核(の諸症状)の原因ではないと言っているとしたら、彼は因果関係というものを極めておかしな仕方で理解していると認定せざるを得ない。
 柄谷の言っていることは、要は「aだからといってbとは限らない」ということだ。これは必然性がないということだろう。しかし、その必然性の欠如が因果関係を否定するわけではない。そもそも先のaと後のbの間に必然性がないからといってaがbの原因にならないというのは間違っている*5

 また、柄谷は、細菌の発見ではなく、“下水道をはじめとする都市改革*6によって結核(の諸症状)が改善されたということを書いている*7。けれど、このような事実もまた結核(の諸症状)の原因であるという見解を否定するものではない。それらは両立するものだ。

 もしかしたら、次のように言われるかもしれない。「そうではない。この『結核』とは、当時の社会で結核と呼ばれていたある症状のことであり、現代の私たちが考える結核のことではないのだ」と。けれど、そのような修正がいかなる意味を持つのか、私にはさっぱり分からない。
 たとえば『結核』ということで、熱と咳が出ている状態を指していたとするならば、結核菌が原因ではないこともあるだろう。風邪とか。しかしそれは『結核』になった場合のいくつかは結核菌によるものだという可能性を排除しない。それにまた『結核』をもっと細かく特徴付けたならば全てが結核菌のせいと言える可能性も残るだろう。
 もちろん、現代の私たちが意図している(結核菌による)結核と、当時(の知識で)そう呼ばれていた『結核』の外延が異なる可能性は認めてもいい。しかし問題はここでも「結核菌はその諸症状の原因ではない」という、主張の正しさなのだ。もしも、それが普遍量化された主張ならば間違いであるし、単に「そのような場合もある」というだけならば、その主張の正誤を判定するのは難しくなるが、かわりに結核菌が『結核』の原因ではないとは言えなくなる。そして、大変遺憾なことに、柄谷の書き方からは、それが「すべての場合」なのか「そのような場合がある」なのか、まったく読み取れない。

 繰り返すが「一部の『結核』の原因」が結核菌ではなかった(例えば、ただの風邪)という主張ならば、それはそれで否定するつもりも用意もない。本当に、当時の『結核』が結核ではなかったかどうか私には分からない。しかし、言うまでもなく、その主張が正しいとしても、また別の一部の『結核』の原因が結核菌であることは、疑いもないことだ。そうである以上、その主張から、結核菌を退治する治療が無意味だということは帰結しない。たとえば、虫歯予防のために“歯をみがいてもむだ*8、“歯をみがくことは別の文化的価値があるにすぎない*9といった類いの主張は出て来ない。
 余談だが、ここで柄谷が書いている「虫歯は“遺伝的なもの*10だから“歯をみがいてもむだ*11」という考え方は、まさにスティーブン・ピンカー氏が呆れていたタイプの発想ではないだろうか。つまり、遺伝子が「つくりだした」ことと「支配している(決定論)」ことを混同しいる事例なのではないだろうか。

 というわけで、柄谷の語る結核原因論(非原因論?)は、およそなんの根拠もない似非科学論だと考える。そもそも、“ある説を真理たらしめるのはプロパガンダである*12というファイヤーベントの主張自体が疑わしいのであるから、それを無批判に前提としている時点で問題がある。かつて氏が「反文学論」(だったかどうか正確には記憶していない)において体言止めの非難に使った言葉を借りれば「認識的怠惰でしかない」と言わざるをえない(キリッ。だいたい、クーンの「パラダイム間の共訳不可能性」でもファイヤーベントの「科学の方法はアナーキスムだ」でも、彼らの論が発表された当時でさえやまほど批判があったはずだ(ラリー・ラウダン風にいうと、良心的な科学哲学者らの制裁対象リスト上位に堂々ランクインしていた*13。)。自分に都合のいい方だけ取り上げるのは不誠実だ。

 なお、結核という言葉はあくまで比喩なのだという反論があるかもしれない。私も、この「病という意味」で、結核がある文学的な狙いを実現するための比喩として使われてきたということを否定するつもりはない。セカチューとかだろ要は。
 そうではなくて「結核を小説に用いることがプロパガンダである」とか「~イデオロギーである」という主張のために持ち出したファイヤーベントの受け売りが、そもそも間違った主張だと言っているのだ。そして、この柄谷科学哲学論自体は何かの比喩になっていると解することはできないと考える。なぜなら、柄谷はこの結核原因語りを、ファイヤーベントによる“ある説を真理たらしめるのはプロパガンダ*14という主張の正しさを“歴然と示している*15事例として述べているからだ。もちろん、ある主張の実例を挙げるという論証のフェーズにおいてさえ、比喩を用いる可能性はゼロではない。私には想像もできないが、そういうハイコンテクストでリテラシーのある人にしか理解できない文学的批評的技法があるのかもしれない。ただ、もしそうであるなら、それが何の――ファイヤーベントの主張の歴然たる事例となる――比喩なのか、また、それを比喩として扱う理由をどなたかご教示いただければ幸甚の至りである。

 最後に、twitterでは書かなかったことをさらっと。
 批評家や哲学者というひとたちは、どうも、なにかあるとすぐ根源的なナントヤラを持ち出して科学を「解体」しようとする。そして、その解体対象には、人の健康、ひいては生命の存続に関わる医療も含まれている。
 いったい、彼らは自分が垂れ流したおめでたい科学論を信じた人が、そのためにあたら大切な命を落としてしまった場合になにか責任が取れるのだろうか。
 特に現代社会では、インターネットメディアを通じて、世界中に拡散する。柄谷が唱えた結核論が、ヘルスケア系のキュレーションメディアに引用され、それがSEOによって検索上位に出てくるようになり、その記事を目にしたひとが、結核の原因について誤解したら? それでもまだどや顔で“憫笑*16しているつもりなのだろうか? 標準的な医療を受けていれば助かったかもしれないのに、批評家の絵空事(を論拠とする偽物の医療)を信じ、人肌の温度のお湯に浸かって金の延べ棒で一生懸命体をこすって病気を治そうとしながら症状の悪化を止めることさえできずついには若くして大切な家族と別れなければならなくなったとしても、自分が言ったのは比喩だったといって知らん顔をするつもりなのだろうか? 言論無罪で我関せずと頬かむりして逃げ切るつもりでいるのだろうか?
 そんな奴らはたとえ便所に隠れていても息の根を止めてやる、と言いたくもなる。
 というか、うんこ食ってろ、という話だ。うんこを食って体調を崩したとしても、原因はうんこのせいではないのだから(そもそも柄谷に言わせれば、もともとひとつの原因はなく、しかも窮極的な原因を問うてはならない*17のだから*18、うんこが原因だと決して言えない)、うんこを食べることを拒む理由はないはずだ(不快感も、社会的に構成されたものにすぎない、らしいすよ)。
 だから、うんこ食ってろ。

   以上

*1:柄谷行人(1988)「日本近代文学の起源」、講 談社学術文庫

*2:twitter上で「4節」と書いていましたが正しくは3節目でした。

*3:Ibid., p.142.

*4:Ibid., p.142.

*5:確かに、この文章が執筆された当時(1979年)は、まだ因果関係について古い考えが残っていたのかもしれない。たとえば、因果関係を反事実的条件法によって分析したデイヴィッド・ルイスの『反事実条件法』は1973年の出版だから、それを知らないとしても無理はないかもしれない。しかし、因果関係を必然的な関係と見る考えは、既にヒュームの時代には批判されていたはずなのだが……。

*6:Ibid., p.142.

*7:Ibid., p.142.

*8:Ibid., p.143.

*9:Ibid., p.143.

*10:Ibid., p.143.

*11:Ibid., p.143.

*12:Ibid., p.140.

*13:『科学と価値』で見かけた言い回しだが、ざっと見直しただけでは見つからなかった。すまん。

*14:Ibid., p.140.

*15:Ibid., p.140.

*16:Ibid., p.243.

*17:というか、そもそも窮極的な原因とはなんだろうか? 結核菌は窮極的な原因なのだろうか? いわゆる千葉 雅也的根源的なナニヤラであるならば、そんなものは私たちの実践になんの影響もない。こういうところを曖昧にすることで、いくらでも自分に都合のよい主張を引き出してくるのが、現代文のリテラシーがある批評家やら哲学者の常套手段だ。

*18:Ibid., p.140.